伊藤千恵子さんは、23歳のとき、いわゆる「お見合い」で運命の人と出会った。
内気で引っ込み思案な性格の将来の夫が、人生の支えになるとは思ってもいなかった。
6歳年上のヒロシさんは岐阜県生まれで、中学卒業後はメーカーに就職し、夜間学校と大学に通った。
彼は、自分を偽ることはなかった。
同じく岐阜県生まれで現在73歳の千恵子さんは、懐かしい思い出と悲しみとともに過去を振り返る。
彼女は、お見合いの写真撮影の際、着物を着なければならないことを知らなかったため、いつものドレスを着ていたことを思い出した。
ヒロシさんは後に、彼女の写真を見て、強い意志を持った人だと感じ、結婚を決めたと彼女に語った。
チエコが教材販売の仕事をやめて専業主婦になった後、ヒロシはチエコの支えがなければここまでやってこれなかったと言い、何かの勉強をするよう励ましました。
チエコはヒロシの思いやりに驚きました。当時は女性が家にいて子供の世話をするのが一般的でした。
チエコが結婚式と新婚旅行の準備を一人で引き受けているのを見て、ヒロシは妻が羽を広げれば人生で大きな成功を収められると感じました。
後に彼はチエコに目標を持つよう勧めました。
法律家としてのキャリアを築く
ある日、彼女は東京の中央大学法学部の通信講座の新聞広告を見つけ、弁護士になるという強い決意というよりは、むしろ興味本位で申し込みました。
彼女は論文を書くために、法律に関する専門書を山ほど読みました。
法律の知識は全くなく、法律用語を一つ一つ調べる必要があるため、一冊の本を読み終えるのに1年以上かかることもあった。
一人で勉強するのに限界を感じた千恵子さんは、往復4時間かけてグループ学習会に参加した。
6年間の通信講座を終えた後も、3人の子供を寝かしつけた後、夜遅くまで勉強を続けた。
司法試験に合格したのは43歳、長男は18歳だった。
合格者名簿に自分の名前を見つけた千恵子さんは、会場前の公衆電話から、急いで博志さんに知らせた。
博志さんはいつもの穏やかで優しい口調で、きっと合格するだろうと言った。
千恵子さんは自宅で法律事務所を開き、労働問題、破産手続き、詐欺行為など、あらゆる相談に応じた。
顧客は増え続け、休日も働いた。弘さんは法律の専門家ではなかったが、人生経験に基づいてアドバイスをくれた。
千恵子さんがストレスを感じると、弘さんはドライブに連れて行ってくれた。
彼は妻を支えるために55歳で早期退職した。
彼女がいつも手元に置いていた法律用語辞典のページの角は、使用により黄ばんで脆くなっていた。
彼の最後の願い
約2年前、弘さんは肝臓がんと診断された。
しかし、数年前に大動脈瘤破裂を患っていたため、手術は選択肢になかった。
夫婦は最後の5日間を病室で一緒に過ごし、古き良き日々を語った。
弘さんは千恵子さんに、弁護士として働き続けてほしいが、無理はしないでほしいと伝えた。
彼は今年5月に77歳で亡くなった。
彼の墓には、弁護士が付けるピンバッジに使われるひまわりのモチーフが描かれている。
「ピンバッジは私たちが一緒に手に入れたから」と彼女は言った。中央に天秤を配し、「愛」の字を刻んだデザイン。
人を思いやる宏さんの姿勢から、お互いに愛を持って接することを学んだからこそ、このデザインにしたという。
仕事に復帰した千恵子さんは、夫の存在がいかに大きかったかを痛感した。
答えに詰まった時は、夫ならこう言っただろうと想像する。
仕事をしている時は、自分と一体になっている。
だからこそ、夫を胸に弁護士業を続けるのだ。